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「赤い屋根の家」と野原家~「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」勝手補論~

ぼくは自分の小説家や批評家への嗜好の根底に、その書き手の「家」に対する忸怩
の有無が大きく作用しいていることに薄々、気づいている。
ここ「家」というのは、家制度とか家族を意味しない。
自身の器、棲み家としての「家」であり、ぼくが江藤淳の批評を興味深く思うのも
あるいは柳田國男の民俗学を否定できないのも、三島由紀夫にある同情を感じるのも
一つには彼らの「家」に対する奇妙な屈託ゆえである。

「家」への屈託とは、言い換えればうまく家がつくれない、という感覚である。
あるいは全ての失敗の原因が家の形にあるという忸怩である。
だからこそ彼らはそのことをめぐって莫大な労力を費やせずにはおれない。
そして徒労ともいえる過程が一つの批評なり思想となって輪郭を結んだとき
ぼくはその仕事に思想的立場の差異を越えて深い関心を寄せるのであり
同時に徒労がまさに徒労として終ったときでさえ、ぼくはそれらを必ずしも
否定できない。

少なくとも、そこには「家」をめぐる屈託の所在が認められるのであれば
それは、ぼく自身が拘泥する困難さをめぐっての少なくともささやかな道標に
なるのだから。


(大塚英志さんの「江藤淳と少女フェミニズム的戦後 サブカルチャー文学論序章」より)



ということで「家」、とりわけ「赤い屋根の家」についてである。

なぜ“赤い屋根”なのかというと

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テーマ : アニメ
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