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クロウトはトーシロに勝てない~河瀬直美さんの劇映画について~

その昔、萩本欽一さんはこう言いました。
「テレビでは芸人の芸よりもトーシロの一言や挙動の方が笑いの瞬発力が高い。」と・・・・

さあ、河瀬直美さんである。
結論だけ言います。この人の映画の“自分語り”は一昔前流行った(?)「ダヴ」の素人が出てくるCMみたい。
長いの嫌いな人は、もう帰っていいよ~。



さて彼女は、何かドキュメンタリー風の撮影技法を劇映画に適用していることが評判になってるそうな。
出身もドキュメンタリー映画とのこと。


昔のドキュメンタリーは記憶が薄れているので語れないし
(「きゃからばあ」と「かたつもり」は観たと思う。※1河瀬さん以外の作家も含め、“あの手の映像”を半監禁状態で何時間も連続して観さされていた。全部混ざっていてい記憶にない。)
新たなドキュメンタリーも未見であるが、この「玄牝」の予告中でお産について語っている女性が、一時期の「ダヴ」のCMみたいであることだけは言及せざるをえない。

ダヴなら~埴輪が有田焼になれたって感じで~




ダヴのCMをボロクソに貶していたナンシー関さんが存命中なら、どうやって河瀬直美さんの通販生活CMをいじっただろうか・・・



ま、しかしこれはこれで(河瀬さんが意図した通りではないだろうが)ドキュメンタリーならではの愉悦
突き詰めて言えば“素人が醸しだす妙な雰囲気”、もっと突き抜けて言えば「不快の芸術」がそこに宿っているであろう・・・

ドキュメンタリーの愉悦とは何か!
それは被写体の予め決定されていない動きを撮ること、喋りを録ることに尽きる。
そしてその無秩序で放逸で微細な動きから「何か」を見出すのが監督の仕事である。
被写体にその「何か」を直接やってもらう訳じゃなくて、監督自らが動くのよね。
その「見い出し」を観客に分かりやすいように補完するのが「ナレーション」であり、「音楽」である。
(「さて、宮崎さんこの原画の牛の動きが気に入らなかったようだ。」みたいなね!)

この点では生物学者にも共通する。
仮説に併せてデータをいじくるのはまあ良しとして対象の行動や生態を歪めずに観察して
そこからある一定の法則を「見出す」のだ。

さっきのダヴ 「玄牝」の動画で例えるならば、「お産のね」と喋りながら顔をあげる動き
「誇りに思えてくる。」と言ってる時の口の動き、そういう細かいところに愉悦 不快が生じるのだ。
神は細部に宿る。


こうしたドキュメンタリーの手法と愉悦を数えたうえで、「ドキュメンタリーの手法を用いている」
河瀬直美さんの劇映画「萌の朱雀」の解説をしよう。


Q:正味この映画にはドキュメンタリーの愉悦とやらはあるの?

A:あります、そう、それは台詞回し。

この映画の台詞回しはドキュメンタルな魅力があった。
訓練を受け、CMや映画で何回も何回も同じ発声を要求される俳優さんと違って
素人さんの発声は二度と同じものが喉から出てこない。
そういう意味でこの映画の台詞回し、声には常にドキュメンタルな魅力がつきまとっている。



しかし・・・動きに関してはそうは言えなかった・・・・
遠慮してるんですみんな。特にフィックスのシーンはカメラの枠の中から出ないようにみんな動いている。
予め決められた動きをやってもらっているみたいで居心地が悪い。
無秩序も何もあったものじゃない。
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kazoku_mini.jpg

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即興演出を施したと思われる少年と少女が星を眺めるシークエンスは確かにドキュメンタルな魅力に溢れている。
この瞬間だけ心のポケットに詰め込んで映画館からバイバイしたい。
yaneue_mini.jpg

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しかしこのお辞儀のシーンの作為性は本当にいただけない。
画の美しさを優先させるが余りにドキュメンタルな魅力を削いでいるように思われる。
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少女が窓の外を眺めるシーンと落描きの描写は映像の作りが「劇映画過ぎて」
一体どうしたのかと思った。
(鼻くそほじりながら窓の外を眺めてたシーンが「スウィングガールズ」にもありました。)
madonosoto_mini.jpg

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何というか監督さんはこの少女に同化しすぎたのではないのだろうか?
ともかくフィックスのシーンは窮屈で窮屈で仕方がなかった。


どうでもいいですけど、作中の尾野真千子さんは山口百恵さんに少し似てます。
この頃に「伊豆の踊子」みたいな映画を撮っておけばよかったんじゃないでしょうか。

でも今時、映画館で皆が見る物語でもないですかね。


この第一作の中で少年少女の成長の描写が不親切だ、叙情的なシークエンスとドキュメンタルなシークエンスがアンバランスだと言う意見も分かる。
が、しかし僕はドキュメンタルな演出自体がカメラという枠のせいで成立し得ていないのが気にかかった。

この一本だけでは判断できないので「殯の森」を見た。

フィックスを使わずに手持ちカメラを用いたのは評価できる。
ワンカットワンカットを短くしてテンポを良くしたのも評価できる。
が、が、が、が、ドキュメンタルな魅力は「萌の朱雀」よりも減衰している。
女優が“上手すぎるから”なのか、例え手持ちでもカメラワークのプランを前もって立ててしまっていたら「生」の面白さが無くなってしまうのか・・・
(無論本当にそういう風にして撮ったかは憶測でしかないけど。)




ともかく「先に私のストーリーありき」で撮っているようにしか見えない。
いや、別にそれでもいいんですよ?でもそれだと“ドキュメンタル”な手法と合わないんじゃないでしょうか?
「コンセプト」は「ブレアウィッチプロジェクト」みたいにあってもいいんですけど
自由度が低い中でドキュメンタルな手法はやっぱり水と油だと思うんです。

さっきも書いたがドキュメンタリーの愉悦とは放逸な動きと声である。
確かにヤラセででっち上げることもできる。
しかし「世界残酷物語」のグァルティエロ・ヤコペッティさんはそのヤラセにしても「ナレーション」で「見出す」仕事をしていた。




だいたいドキュメンタリーは膨大な素材からの抽出という操作も関わってくる。
「よーい、アクション!」でワンカットワンカット撮るのとは訳が変わってくる。
「沙羅双樹」では手持ちカメラで“ドキュメンタル風”を狙っていたが
「やっぱりワンカットワンカットシーンを決めて撮ってるんだなあ」と思わせてしまい、そこに作為の臭いを感じてしまった。 


別にドキュメンタリー風の手法をとっている映画がドキュメンタリーそのものである必要はまったくないが
はっきり言ってしまえば河瀬さんの劇映画はドキュメンタリーの物まねであり
卑近な例で喩えるなら“面白い素人のモノマネをする芸人”でしかない。
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面白い素人の例※2
自分の芸で勝負せずに、この手法を取りつづける限り河瀬さんは「面白い素人」に永遠に勝てない。


「欽ちゃんの仮装大賞」で突拍子も無いことを言ってしまう“素人”が森達也さんの「A」に出てくるオウム信者なら
サンデージャポンでヲタクのふりをして出てくる“ヤラセの劇団員”が「萌の朱雀」である。
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もっと言ってしまおうか?「ドキュメント2011(暦年はその都度変えてね)」が「恋空」なら
「殯の森」はぱーぷる姐さんこと瀬戸内寂聴さんの「あしたの虹」なのである。

余計わかりづらいか。


要は河瀬さんの劇映画は「目の前で産み落とされたもの。」ではなく
「それを意図的になぞろうとしているだけのもの。」なのだ。だから非常に居心地が悪い。
ドキュメンタリーは監督が「見出していくもの」なのに、その見出していくはずのものを
直接素人にカメラの前でやらせてしまってはたまったものではない。


嘘はどれほど優れていても本物には勝てない。
映画的に巧いだの下手だのそういう問題ではない。これは構造の問題で
どう足掻いても「クロウトがトーシロに負けてしまう」ジャンルゆえの宿命なのだ。


まさか映画で、それもヨーロッパで激賞されている映画で、萩本欽一さんの「素人の瞬発力の笑いに芸人は勝てない。」という言葉を噛み締める羽目になるとは思わなかった。
関係ないけど、一体球団はどうしたんだろう欽ちゃん。



まあ、シメですけど、河瀬直美さんは通販生活のCMに出るよりも
ダヴのCMを撮って萩本欽一さんのドキュメンタリーを撮ればいいんじゃないでしょうか?
と思って調べたら、河瀬さんの同輩(?)の是枝裕和さん※3
がもう萩本欽一さん撮ってんじゃん。

なんだこれ、なんだこれ

オチがついたってことなんでしょうか・・・・・ということでお開き。



おまけ: ダ ヴ

同じロングとして~あの髪は~許せない(笑)


※1


きゃからばあ
http://www.kawasenaomi.com/ja/works/documentary_film/post_18/
スキャン0001_mini

かたつもり
http://www.kawasenaomi.com/ja/works/documentary_film/post_9/
この予告を見て、手でなぞっているシーンの“作為”が本当に不快だったのを思いだした。
ドキュメンタリー映画の「自分撮り」はプリクラのような不快感がある。
「プリクラ」に付帯されるものは“バカ”だからまだいいけど、ドキュメンタリーの自分撮りはそこに“芸術”と“権威”が付帯するから粘着力が高く、剥がしづらい。ああ鬱陶しい。


※2


とんねるずさんの番組に昔出ていたイカおやじさん。
なんか急に持ち上げられて、世間に注目されて困惑していた。
原田宗典さんがエッセイにその顛末を書かれていたのだが何て題名か忘れた。



※3


現しよ(往復書簡 河瀨直美×是枝裕和)
http://www.kawasenaomi.com/ja/works/documentary_film/post_12/



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