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「赤い屋根の家」と野原家~「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」勝手補論~

ぼくは自分の小説家や批評家への嗜好の根底に、その書き手の「家」に対する忸怩
の有無が大きく作用しいていることに薄々、気づいている。
ここ「家」というのは、家制度とか家族を意味しない。
自身の器、棲み家としての「家」であり、ぼくが江藤淳の批評を興味深く思うのも
あるいは柳田國男の民俗学を否定できないのも、三島由紀夫にある同情を感じるのも
一つには彼らの「家」に対する奇妙な屈託ゆえである。

「家」への屈託とは、言い換えればうまく家がつくれない、という感覚である。
あるいは全ての失敗の原因が家の形にあるという忸怩である。
だからこそ彼らはそのことをめぐって莫大な労力を費やせずにはおれない。
そして徒労ともいえる過程が一つの批評なり思想となって輪郭を結んだとき
ぼくはその仕事に思想的立場の差異を越えて深い関心を寄せるのであり
同時に徒労がまさに徒労として終ったときでさえ、ぼくはそれらを必ずしも
否定できない。

少なくとも、そこには「家」をめぐる屈託の所在が認められるのであれば
それは、ぼく自身が拘泥する困難さをめぐっての少なくともささやかな道標に
なるのだから。


(大塚英志さんの「江藤淳と少女フェミニズム的戦後 サブカルチャー文学論序章」より)



ということで「家」、とりわけ「赤い屋根の家」についてである。

なぜ“赤い屋根”なのかというと
サブカルチャー作品ではよく赤い屋根の家がよく出てくることと
割とテンプレート化した昭和後期~現在の一戸建て住宅は赤い屋根のものが多いからである。
その原像はどこからくるのであろうか。


・「赤い屋根の家」の原像

「赤い屋根の家」が日本に“輸入”されたのは明治の開国に端を発してる。
お雇い外人や宣教師などがドドドっと入ってきたので
それに伴って「赤い屋根の家」も日本の「異人村」や「異人館」とかそこから派生した開拓村に建てられた。

仔細に渡って検討できないのだが、この「赤い屋根の家」は宣教師文化だったのでは
ないかと推測される。

http://www.mapple.net/spots/G00200096401.htm


・「赤い屋根の家」の概念化~堀辰雄さんと軽井沢小説~

この“舶来品”である「赤い屋根の家」の概念化に一役買ったのは堀辰雄さんである。

堀辰雄さんは「軽井沢小説」という軽井沢を舞台にした小説を多数書いていたが
軽井沢は元々外国人向けの避暑地であった。
以下はwikipediaより引用。


江戸時代が終わり明治時代に入ると、いったんは宿場町としての機能を失って没落した。
しかしその後、1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー
(Alexander Croft Shaw, 1846年 - 1902年(明治35年))がたまたま訪問し
高林薫平の居宅を借り受けて7月から8月まで滞在し、故郷のトロントと似ていると感じた。

1888年(明治21年)、ショーは「つるや」の主人の佐藤忠右衛門のあっせんによって別荘を設け
避暑地としての軽井沢の歴史を切り開いた。
別荘第1号は、民家を移転し、改造したものである。
後に移築され、ショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏に現存する。

1906年(明治39年)には「三笠ホテル」も開業して宣教師・知識人・文化人の間で人気を博し
日本三大外国人避暑地の1つに数えられるようになった。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2





堀辰雄さんの「軽井沢小説」は青空文庫でタダで読めるのだが「赤い屋根の家」が登場する該当箇所を引用する。
鬱陶しいが一応「赤い屋根」が出てくるところは色文字にしてる。


けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た。
        (中略)
――漸(ようや)く外人部落が目(ま)なかいに見えて来
その一番はずれには、なるほど赤い屋根の建物があって、その上には赤い旗がばたばたやっているのが認められ出した。

(「晩夏」より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4799_14420.html




朝霧の中に、そんな別莊の赤い屋根青い屋根などが
まるで繪ハガキに貼られた外國の郵便切手のやうに見えることもあります。
最初は外人といふものは、さすがに思ひ切つたところに別莊を建てるもんだなと感心してゐましたが
聞いて見ると、それは何も眺めがいいからといふためではなく
以前は毎年のやうに大きな山海嘯があつて、村のなかにあつた別莊などはいくつも流されたので
だんだんそんな丘の上のはうに建てるやうになつたのださうです。

(「匈奴の森など」より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/47878_39431.html




そこのヴェランダにはじめて立った私は、錯雑した樅(もみ)の枝を透して
すぐ自分の眼下に、高原全帯が大きな円を描(えが)きながら
そしてここかしこに赤い屋根だの草屋根だのを散らばらせながら、横(よこた)わっているのを見下ろすことが出来た。

彼女は、その燃ゆるような山なみを、サナトリウム赤い屋根を前景に配置しながら、描いてみたいと言った。

(「美しい村」より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4812_14384.html




軽井沢に行かれた際には是非とも「旧サナトリウム」へ
http://www.geocities.jp/nishimukohnoyama/sanpo/karuisawa02.htm



この堀辰雄さんが描いた、概念としての「赤い屋根の家」が
戦後の焼け野原の中で育った若者たちの「夢」「目指すべき処」となる。


・歌の中の「赤い屋根の家」

あの時期あれほど堀辰雄の世界に接近しようとしたのは、やはり昭和二十年代後半が
まだ“結核文学”の役割を主張し得る時代だったからにちがいない。
微熱にほてる身体に、軽井沢の冷気が快かったように、堀辰雄文学のどこか架空な
軽やかさは、病に倦んだ心から周囲の現実を遠ざけてくれるように感じられた。
それは占領は漸く終ったけれども、まだ結核菌がウヨウヨと生きている現実であった。

また、焼け跡はそのままに拡がっているのに、なぜか相変わらず家族というものが
身辺にひしめいている現実でもあった。

(江藤淳さんの「昭和の文人」より)




戦後の若者たちは、やたらと「赤い屋根の家」を建てたがった。
焼け野原の跡に残されてどうするか、どこに拠って立てばよいのか。
若者たちの「新しい夢」の格好のあてがいが堀辰雄さんによって概念化された“赤い屋根の家”だったわけである。

その心性は戦後の影に怯えながら堀辰雄さんの小説を読んだ江藤淳さんに近いものがある。
荒野があてど無く広がる中で、頼れる場所、拠り所が一つ欲しかったのだ。

また「軽井沢的な概念」がメディアに流布されたり
まあ「当時の若者」がユースホステルに宿泊する延長で軽井沢文化を知ったり
とかの流行りの中で伝聞されたりする中で「赤い屋根の家」が彼らの夢となった。


翼をください」でお馴染みの「赤い鳥」の「赤い屋根の家」と


初恋」でお馴染みの村下孝蔵さんの「北斗七星」

では惜しげも無く「赤い屋根の家」讃歌が歌われている。



「丘の上に赤い屋根の家を建てたい」というのは
前述した堀辰雄さんの「匈奴の森など」の影響によるものだろう。
大事なことなので二度引用する。

朝霧の中に、そんな別莊の赤い屋根青い屋根などが
まるで繪ハガキに貼られた外國の郵便切手のやうに見えることもあります。
最初は外人といふものは、さすがに思ひ切つたところに別莊を建てるもんだなと感心してゐましたが
聞いて見ると、それは何も眺めがいいからといふためではなく
以前は毎年のやうに大きな山海嘯があつて、村のなかにあつた別莊などはいくつも流されたので
だんだんそんな丘の上のはうに建てるやうになつたのださうです。
(「匈奴の森など」より)





しかしテンプレとしての「赤い屋根の家」はまだ十分大衆化、一般化していなかった。
実家から飛び出してマイホームぶっ建てるのは贅沢であった。

「赤い屋根の家」は1974年、「北斗七星」は1984年にレコードで発表されたものだが
80年代前半がギリギリ「赤い屋根の家」が一般化、大衆化
―軽井沢のみならずどこでもバカスカ建てられるようにテンプレート化―するかしないかの
分水嶺になっている。


小坂明子さんの「あなた」に登場する女性が「家」での蹉跌
(こんな家を建ててあなたと住みたかったけどできませんでしたみたいな話)を強いられたのは
「赤い屋根の家」即ち「当時の若者“あなたと私”の夢」が十分一般化、大衆化されてなかった
ためである。



パナホームCMでお馴染みの「家を作るなら」が
レコードで発表されたのが1971年。男がどういう家を建てればよいのか「計画中」の段階であった。
更に家を買う金もなかった。


江藤さんが堀辰雄さんの小説をクサしたのは「軽井沢小説」の「赤い屋根の家」じゃ
結局「小坂明子さんの“あなた”」のように「妻」「母」が崩壊してしまうではないか
という疑念があったわけだ。

堀辰雄の軽井沢文学や村上龍のドラッグ文学を江藤が認めなかったのは
小説中に描かれた「仮構」の強度の問題だ。
江藤は「母」を庇護しない「仮構」を許さない。

(大塚英志さんの「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」より)



しかし、皮肉にも堀辰雄さんが“概念化”した「赤い屋根」がテンプレ化、大衆化し
軽井沢以外の土地―全国各地でバカスカ立てられることによって
江藤さんが危惧した「母の崩壊」がある程度、防がれるようになる。



・「赤い屋根の家」の大衆、一般、テンプレ化 ~少女フェミニズムの“恢復”~

江藤は「人工的な社会」それ自体を否定しない。江藤が問題視するのは
その人工的な環境の中で女たちが「自己崩壊」していくことだ。
小島信夫『抱擁家族』において描かれた「アメリカ式のセントラル・ヒーティング」つきの
家の中で自らの女性性を崩壊させていく妻の姿に深い同情を寄せた江藤は
母子密着型の日本型文化の中では“母”の崩壊なしで「成熟」はありえないとしながら
同時にこの人工的な社会で壊れていく女たちに対してひどく敏感なのである。

江藤がサブカルチャー小説の「古風さ」や「健康さ」に拘泥する時
それは「女性性」が小説に描かれたサブカルチャー的世界によって正しく
庇護されているか否かが問われている、と言ってよい。
したがって江藤は女たちを崩壊させることなく彼女たちの「古風さ」や「健康さ」の保たれる
「人工的な世界」を夢想しているようなところが見うけられる。

(大塚英志さんの「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」より)



実家を飛び出した当時の若者たちのうち、宅建関係で要職に就いたものが
同世代を相手にするべく「赤い屋根の家」のテンプレート住宅を考えたのだろうか
バカスカと全国区に堀辰雄さんの影響を受けた「赤い屋根の家」の一戸建てが建てられるようになった。

そして、この堀辰雄さんの軽井沢小説に描かれた家を基に、モデル化された「赤い屋根の家」
即ち「人工的な家」によって保護されることで「母の崩壊」がある程度防がれることになる。

「人工的な家」の中で“少女フェミニズム的な主婦”が思い思いに
部屋をデザインしたり、欲しかったものを買って家に飾ったりすることで
「母の崩壊」は阻止されたのである。


ドンヨリした「あなた」


を歌っていた小坂明子さんが
この時代になった途端「ハーイあっこです」のテーマソング「晴れのち晴れ」


「キッチンから愛をこめて」


をウキウキで歌ったのは「赤い屋根の家のテンプレ化」「“母の崩壊”からの防衛の成功」と無縁ではない。

言うまでもなくアッコさんが住んでるのは“赤い屋根の家”である。




一度は挫折せざるを得なかった、大きな窓、小さなドア、部屋には古い暖炉、子犬の横には旦那
という“少女フェミニズム的な夢”が「赤い屋根の家」がテンプレート住宅化、全国区化することで
叶えられたのである。

一人芝居の第一人者、イッセー尾形さんは一時期土建業も兼任されていたが
「理想の家」を注文する顧客に手をこまねいたことをエッセイの中で書いている。






これは一人芝居だが13:00~から「主婦の願望」に一々苦慮した大工の経験が出てくる。



この「赤い屋根の家」という「人工的空間」の下で形作られたのが「ニューファミリー」である。

http://kotobank.jp/word/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%83%BC

赤い屋根、小さな家、大きな窓、暖炉、旦那、わたし、子ども、子犬・・・・


そして、小坂明子さんの「あなた」で歌われた、これらの「ニューファミリーを構成する主要因」が
90年代には“仮構化”されるようになる。
その“仮構化”について触れる前に、童謡「赤いやねの家」について触れたい。


・童謡「赤いやねの家」と“転宅”


90年代に入ると「赤いやねの家」という童謡が登場する。


「赤いやねの家」はもともと「ふえはうたう」という番組内で発表されたものであり
関俊彦さん(「忍たま乱太郎」の土井先生の声優さん)が「ふえのお兄さん」を担当していた
頃の作品ということから、少なくとも初出は平成に入ってからのものだと思われる。

以下は「赤いやねの家」の作詞をされた織田ゆり子さんのブログからの引用。

これは平成元年4月にスタートした小学校3年生向けのリコーダー(たて笛)の学習番組。
         (略)
(NHK教育テレビ「ふえはうたう'90」より引用)

リコーダーで出せる音の上達度にあわせて、ラとシで遊ぶ曲「またあそぼ」
ソラシドだけで吹ける曲「ソラシドマーチ」、ミレドの練習曲「赤いやねの家」
高いミが吹けるようになった最終回は「あしたはだれに会えるかな」など14曲の詞を書き
番組中で使う歌の選曲(外国曲の時は訳詞)もして、いつも五線譜が隣にある毎日だった。

(「ふえはうたうのアンコール放送」―ブログ「文章で稼ぐ贅沢」より)
http://odayuriko.livedoor.biz/archives/50536060.html




しかし、この歌に登場する子どもは今は「赤いやねの家」に住んでおらず
引っ越していることが分かる。

事情はどうなのか分からないが「赤い屋根の家」に住み続ける夢が、現実的に困難になっている
ことを示唆してる。
現実の「ニューファミリー」は「赤い屋根の家」を手放し、今は住んでいないのである。

この事は「赤い屋根の家」のみならず「ニューファミリー自体」が仮構化していくことと無縁ではない。


・仮構化するニューファミリー ~野原家と赤い屋根の家~

ここでようやく、埼玉県かすかべ市に住む野原家、漫画「クレヨンしんちゃん」が登場します。


もちろん野原家の屋根も赤い屋根をしています。
akaiyane.jpg


ここで漫画クレヨンしんちゃんについて簡単におさらいしておきましょう。

「クレヨンしんちゃん」とは「あんBaらんすぞ〜ん」や「ひらきなおっちゃうぞ」

オナピーふみおさんとかが好きでした。

等の青年向けシモネタ漫画を得意とする臼井儀人さんが、手がけたギャグ漫画。


子ども向けにアニメ化された時には、青年向けのギャグが伝わるかどうか不安視されていたが
主人公が幼稚園児だったので“同じ子どもを対象にしたシモネタ”がやりやすかったことと
「分かりやすい、キャッチーなゲストキャラクター」(地獄のセールスレディー、立ち読みを絶対許さない書店のおばさん等)が
よい取っ掛かりとなって瞬く間にヒットした。


そして最初は妻一人、子一人、夫一人であったが、犬が家族に加わり、娘ができ・・・と
段々“ニューファミリー”になっていった。

赤い屋根の下で暮らす「ニューファミリー」
まさに、小坂明子さんや赤い鳥のメンバーが歌っていた夢である。

ちなみにひまわりさんが誕生したとき、チューリップの財津和夫(!)さんが歌を提供しており
タイトルがずばり「ひまわりの家」


歌詞の中で「赤い屋根」であることは指していないが、ここでも「家」がキーワードとなっている。


しかし、ここでの「ニューファミリー」は“仮構化”を余儀なくされた。
なぜなのか。

第一に、クレヨンしんちゃんは登場人物の年齢が「サザエさん方式」で固定されており
1990年代でもひろしさんは35歳、2000年代でも35歳、2010年代でも35歳である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%97#.E6.A6.82.E8.A6.81

連載当初は、ひろしさんの生年は1990年に35歳ということから1990年-35歳=1955年生まれ
ということで、しらけ世代となり、
実際に中高生くらいの頃に「赤い鳥」を聞いてその憧れの延長で
「赤い屋根の家」を建てて「ニューファミリー」を作っていった層にもあたる。

しかし2000年では、2000年-35歳=1965年生まれということでバブル世代になってしまい
実際に1998年アニメで発表された「青春時代の父ちゃん母ちゃんだゾ」では
「東京ラブストーリー」の主題歌であった「ラブ・ストーリーは突然に」

を作中で使用したり
「ねるとん」などの用語を使うことで、彼らが「バブル世代」であることを色濃く印象づけてる。


更に2010年では、2010年-35歳=1975年生まれ、ポスト団塊ジュニア世代になってしまう。

2010年に発表された「カスカベタイムパトロール隊 オラ誕生の秘密だゾ」ではハンカチがキッカケで出会ったとされており
一応出会った年は2002年で「平成」なのだが「昭和な感じ」とネネさんに言われたり
「ラブストーリーは突然に」まで使った「青春時代の父ちゃん母ちゃんだゾ」に比べて
時代描写が少なく、ポスト団塊ジュニア世代の恋愛をうまく描けたとは言いがたい。

いやむしろ「ゼロ年代」を背景にして「しらけ世代キャラ」の恋愛を描くのが難しかった
というべきだろうか。

つまり、時代が進むことでどんどん実際のニューファミリー層の年代とズレていき
同時に、実際にひろしさんやみさえさんと同じ年齢の人ともズレがでてきてしまったのだ。
これが“仮構化”の第一要因


第二に、これが重要なのだが「クレヨンしんちゃん」は元来「漫画アクション」という
ものすごく青年向けの色の濃い雑誌から出た「ギャグ漫画」であったということ。

つまり「ニューファミリー」というのは「登場人物に伸び伸びギャグをやってもらうため」に持ちだされた設定、外枠であり
また、その「ニューファミリー」なる概念も“ギャグ化”の対象にあたるものであった。

ややこしい言い方をしたが「クレヨンしんちゃん」はあくまで「ギャグ漫画」
「ギャグ」が主で「ニューファミリー」が従であるということである。
元々「ニューファミリー野原家」は「野原一家が飛ばすギャグ」を保証するための「仮構」でしかなかった。

しかし「ニューファミリー」としての野原家が、「野原家よくね?」と注目をあつめるようになり
元々「仮構」だった側面へ焦点が絞られるようになることによって
「仮構的」な面が強調されるようになったということである。


・大塚英志さんはなぜ『オトナ帝国』に異議を発したか~野原家、理想の「ニューファミリー」へ~

先程から大塚さんの著書「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」を散々引用に使わせてもらってるが
大塚英志さんは何故「オトナ帝国の逆襲」に異議を申し立てたか。

文章の内容自体は本文にあまり関係がないので引用はしない。


「万博」が本来は“アメリカ的”であり、また野原家の「赤い屋根の家」も
「欧化政策の中に根付いた宣教師文化」に端を発していることもどうでもいい。
“岡本太郎対ディズニーという「アングル」”もどうでもいい。それらは別の文脈で語られるのが相応しい。

問題の本質はそこではない。
大塚英志さんのパーソナリティー、資質に「異議の本質」は隠れている。

「サブカルチャー文学論」


でも分かるとおり、大塚さんは「仮構」に対して非常に鋭敏な神経をもっている。
様々な作家の「仮構」と「非仮構」を厳粛に腑分けしていく様子に対しては、頭の下がる思いである。

その厳粛さを考えれば、大塚さんが何故「オトナ帝国」に疑念を呈したかがわかる。
大塚さんが申し立てた「異議」の“本質”はむしろこちら『「仮構」と「現実」の問題』にある。

「イエスタデイ・ワンス・モア」は「仮構としての70年代」をぶち立てようとしていた。
それに野原家は対抗して「俺たちの“現実”のほうが尊い」と「自分たちの“現実”」を高らかに
持ち上げた。

しかしその「野原家の現実」は(くどいようだが)伸び伸びとギャグをやるために設定された「仮構」である。

更に「オトナ帝国」が発表されたのは、2001年。
「野原家の現実」は「1990年に35歳を迎えた、しらけ世代のサラリーマンが築いたニューファミリーの現実」であって“2001年の現実”ではない。

なにかもどかしい問題というか、ねじれがそこにあるのではないか。

しかし、観客は「2001年の現実」ではない「仮構化されたニューファミリー」を“現実だと錯覚すること”を選んだ。
「オトナ帝国」は巷傑作とされてる。
だが、チャコさんとケンさんというように野原家が本当に“夢も希望もない現実”であるならば
連載当初から数えて11歳年を重ねていなければいけない


同じ90年代に始まった「ママはぽよぽよザウルスがお好き」



は実際の家庭をモデルにしているので、作中人物は相応に年を重ねている。



「オトナ帝国」で野原ひろしさんは「オレは家族と一緒に未来を生きる!」といったが
しかし、その“未来”とは「サザエさん時空」であり
“1990年から永遠に、妻も「あなた」も年をとらない「坊や(しんちゃん)」と「子犬(シロさん)」に囲まれたニューファミリー”
でいつづけることを指している。
そして、その“未来”を生きることを観客も批評家も選択したのである。

ともあれ野原家は、登場人物が伸び伸びギャグをやるための“仮構化されたニューファミリー”から
バブル後に蘇った“理想のニューファミリー”に変化した。

しかし・・・

江藤は女性たちが「近代」という「楽園」を手に入れるため
自らの内の「母」を自己破壊したのだと記す。しかもこの自己破壊とは「近代」という
白馬の王子を窓辺で待つために「若くある」ことを選択する。

(大塚英志さんの「江藤淳と少女フェミニズム的戦後」より)




・破壊された「赤い屋根の家」~“ニューファミリー”の崩壊~

bakuha.jpg

野原家、ガス事故により爆破。
小島信夫さんの「抱擁家族」

の場合は、奥さんが「いつまでも若くある」ために“母を崩壊”させてしまったが
野原一家の場合、家族全員が「いつまでも若くある」ために「母」ではなく「家」が崩壊した。

bakuha2.jpg
かいけつゾロリのママだーいすき」と並ぶ「二大マイホーム崩壊話」と名付けたい。


「オトナ帝国の逆襲」の公開日は2001年4月21日。「オラの家がなくなったゾ」の放映日は2001年5月18日
わずか一ヶ月しか間隔があいていない。
2000年11月に原作が「漫画アクション」から「まんがタウン」に移籍するのに併せて
「仕切り直し」ということで爆発させたそうだが、あまりにもはやすぎる。

なお、この「漫画アクション」から「まんがタウン」に移った理由は
「青年向けギャグ漫画」から「ファミリー漫画」にリニューアルするためであった。
「クレヨンしんちゃん」の主軸が、「ギャグ」から「ファミリー」に主軸が移ったことがここでも示唆されている。


その後保険での建て直しが完了するまで「またずれ荘」に移る。
BORO.jpg

BORO2.jpg

「ファミリー漫画」なのに「ボロアパート」での四人暮らしの生活。
BORO3.jpg
「ニューファミリー」どころか「同棲時代」に逆行である。


この展開は、大衝撃であった。
なぜ、あの野原家爆破とその後の「またずれ荘」に野原家が移り住む展開が波紋を呼んだのか。

それは、戦前から現在に至るまでの「国民の夢」であった「赤い屋根の家」を
「国民的人気アニメ」の中で破壊してしまったからであり
そして「仮構のニューファミリー」を保証してくれる「人工的な赤い屋根の家」という支えを失ったまま
「ボロアパート」で「仮構のニューファミリー」をやる展開になったからである。


当然「ギャグ漫画」なら“アリ”な展開であったが
「赤い屋根のマイホーム」が「ボロアパートまたずれ荘」になってしまうのは
「ニューファミリー漫画」としては“ナシ”な展開だったのだ。

そしてこれは同時に“ニューファミリー”なる概念に大打撃を与えることになる。
なんとなくゾンビのように生きていた「ニューファミリー」という言葉は
そのニューファミリーを保証する邸宅、即ち野原家の―「赤い屋根の家」の爆破によって完全に死滅することになった。

こうして野原家は、登場人物が伸び伸びギャグをやるための“仮構化されたニューファミリー”から
“バブル後に蘇った理想のニューファミリー”を経て、単に“理想の一家”となった。

そして、これは一つの行き止まりでもあった。
今までは「ニューファミリー」という理想の型があったのだが
野原家そのものが理想の一家となってしまったため
どれを理想として目指せばよいのか、その対象が判らなくなってしまう事態にはまってしまったのだ。


作者の死後「SHINMEN」


という今までとはだいぶ変った方向に進まざるをえなかった
のは“仮構化した赤い屋根の家″という物語の支え
を一度失ってしまったからではないかと考える。



・夢のあとさき~その後の“家族”~

牛河はテーブルの上に横たわっていた。
口は大きく開き、閉じることのない目には厚い布がかぶせられていた。
その瞳が生きている最後の瞬間に見ていたのは、中央林間の建て売りの一軒家であり
その小さな芝生の庭を元気にかけまわる小型犬の姿だった。

shiro.jpg

(村上春樹さんの「1Q84 book3」より)





戦前から現在に至るまで、夢の対象であった「赤い屋根の家」
「赤い屋根の家」は戦前~戦後は「理想の別荘」戦後~現在は「ニューファミリーの象徴」という役目を務めた。


しかし、家族というものは多様化する。
現在の“家族”なるものが「ニューファミリー」という枠に収まりきらなくなってきているのは言うまでもない。
野原家にニートの小山むさえさんが居候にきたのも、その“家族の多様化”の反映ともいえる。
neet.jpg


一度「赤い屋根の家」を失い、そして「ニューファミリー」という理想の型を失ってしまった我々の
今後の家族のゆくえは・・・・

しかし、吉本隆明さんの言うとおり「子ども作ってその子に背かれてくたばって死ぬ」
というそれだけでいいと思うし、子どもがなくても「飯喰って色々関わりをもってくたばって死ぬ」
というそれだけでもいいと思う。



そして「赤い屋根の家」の、次の“理想の家”は一体何になるのだろうか・・・
思いっきりレトロフューチャーなたまご型であろうか・・・

取り敢えず、軽井沢の冷たい風に吹かれながら考えてみましょうか。
ちゃんと堀辰雄さんがモデルにした「旧サナトリウム」に行かねえとな。
http://www.geocities.jp/nishimukohnoyama/sanpo/karuisawa02.htm


西久保さんの演出とカメラワークが最高にイカしてる(死語)キティフィルムなつい



ということでお開き。
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